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世界一の投資家 ウォーレンバフェットの生い立ちと幼少期

ウォーレン・バフェット天才の生い立ちと幼少期

ウォーレン・バフェット

ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett)【1930.8.30~】はアメリカ合衆国の資産家、投資家、経営者。

世界最大の投資会社バークシャー・ハサウェイの会長兼CEO。

バークシャーは、時価総額60兆2,800億円(2020年1月時点)と世界第7位の時価総額です。(日本で第1位の時価総額を誇るトヨタ自動車の時価総額は24兆7,792億円)

バークシャーハサウェイ
バークシャーハサウェイ



94年に「フォーブス」の世界長者番付1位に。その後もトップ10に30年以上も君臨。

ジム・ロジャース、ジョージ・ソロスと共に世界三大投資家の一人に数えられ、資産額は約9.6兆円と言われています。

また慈善家としても有名であり、「オハマの賢人」と呼ばれます。
2006年には370億ドル(当時のレートで4兆3千万円)をビル・メリンダ・ゲイツ財団に寄付し、資産の8割以上を手放しています。

株式投資において大切なのは、誰かの意見や流行に従って「何に投資するか」を決めるのではなく、自分が本当に理解できるものに投資をするということなのです。

ウォーレン・バフェット
ビルゲイツとバフェット
ビルゲイツとバフェット

ウォーレン・バフェットの幼少期

バフェットの生い立ち

バフェットは1930年、ネブラスカ州オハマで生まれます。

父親のハワードは4期にわたってアメリカの下院議員を務め、かつ証券業を営む人物でしたが、バフェットが1歳の時に仕事先であった銀行が大不況によって潰れます。

後にバフェットは、この大不況があって良かったと語り、「景気の良いときに生まれていたらここまでにはなれなかった」と振り返っています。


その経験からか、バフェットは幼い頃から商売を始めていました。


バフェットの祖父は、小さな食料品雑貨店を営んでいたのですが、6歳のバフェットはこの店でコカ・コーラの6本入りパックを25セントで購入し、近所に1本5セントでバラ売りしていました。
全部売れれば5ドルの利益になります。

他にも、ゴルフコースの池の中に沢山のゴルフボールが落ちていることを発見し、それを拾ってそれらをパッケージにして販売したり、
レース場で捨てられた馬券の中から当たり馬券を探したり、
有力馬の情報を掲載した競馬新聞を自作して販売したりしていました。


またお金の事だけでなく、ストップウォッチで正確に時間を計る事に熱中したり、車のナンバーをすべて書き留めたりと、バフェットは幼いころから異常な数字好きだったようです。

その最たる例として、町中のガソリンスタンドを周り、客が飲んだペプシやコカコーラ、ジンジャエールのふたを片っ端から集め、数を種類ごとに数えて「どの銘柄が人気なのか?」という市場分析をしていたというエピソードもあります。

バフェットの人生を左右した2つの出来事

バフェットは7歳の時に、図書館で人生を左右するような本に出会います。(10歳とする情報源もあり)

その本は「1000ドル稼ぐ1000の方法」『One Thousand Ways to Make $1,000』という題名で、お金を稼いだ人たちの実例をシンプルに次々と紹介する内容でした。

ハイアーズ・ルート・ビア社を興した男性や大手百貨チェーンの創業者、トマトジュース会社を成功させた女性、道端でタイヤ修理業を始めた男性などの話が載っているその本から、
「自分から始めなければならない」「ルールは守らなければならない」「自分がよく知る分野で勝負せよなど、多くの重要な事を学びました。

その中でも、最もバフェットが関心を持ったのは「1,000ドルを年利10%の複利で運用すれば、5年で1,600ドルになり、10年で2,600ドルになる。25年運用すれば18,000ドルだ」という複利の考え方だったそうです。

10歳の時にはすでに、オマハ図書館にある「金融」という言葉がタイトルに入っている本はすべて、2回ずつ読みました。

ウォーレン・バフェット




また、10歳の時にもう一つ大きな経験をしました。

10歳のバフェットは父親に連れられ、ニューヨーク証券取引所の会員だったオランダ人のアト・モル氏と昼食をとりました。

食べ終わった後にボーイが色々な種類のタバコをもってきて、アト・モル氏はその中から好みの葉を選び、ボーイはアト・モル氏が選んだタバコの葉で葉巻を作りました。

このアト・モル氏の優雅な様子を見ていたバフェットは、「これが目指すべき高みだ!」と感じたそうです。

バフェット初めての証券取引

証券マンのリッチな様子を見て、株券に強い興味を持ったバフェットは、11歳の時に初めて株券を購入します。

バフェットはお姉さんと共にシティサービス(現在のCitgo)の株を38ドルで3つ購入したのですが、すぐに27ドルに下がってしまいます。

その後バフェットは40ドルまで株価が戻った時に売却したのですが、なんとその株は長期的に急騰。何と200ドルまでになったのです。

この経験からバフェットは「小さな利益に拘らず、忍耐する」事を学んだと後に語っています。

CITGO
CITGO

バフェットの中学時代

バフェットが12歳の時に、父ハワードが上院議員に当選します。

そのため一家は首都のワシントンに引っ越すこととなりましたが、バフェットは生活に馴染めずひどいホームシックを煩い、結局オマハの祖父の家に戻って中学校に通う事となりました。

オハマに戻ったバフェットは祖父の店で働き始めますが、ここで重労働は勤勉さそのものであるという事や、税金はいわばピンハネの様なものであるという、ビジネスにおいて大切な事を学びました。


13歳でまたワシントンの家族の元に戻されたバフェットは、新聞配達の仕事に夢中になり、なんと自分の自転車を経費として控除し、所得税を始めて申告しました。

中学校でのバフェットは一つ飛び級していたのですが、クラスメイトと上手くいかず、成績も悪かったそうです。

バフェットの高校時代

高校に進学したバフェットは、新聞配達で当時のサラリーマン並みに稼いでおり、そのときの稼ぎをネバラスカの40エーカーの農場に投資していました。

そして17歳、高校3年生の時には、友人と当初300ドルのピンボールマシンをわずか25ドルで購入し、それを修理してワシントンの理髪店にレンタルして1プレイ5セントとしてゲーム料を徴収するというビジネスを始めました。

このビジネスは最終的には週50ドルの利益を稼ぎ出すようになり、最終的にはこの事業を1200ドルで売却しました。

この頃既にバフェットには600万円程の資産がありました。

ピンボールマシン

バフェットの大学時代と師グレアムとの出会い


バフェットは投資家を目指していたため大学に行く意思はありませんでした。

大学に行って欲しいという父親と衝突しつつも、父親の説得から一流校であるペンシルベニア大学ウォートンスクールファイナンス学科に進学することとなりますが、結局すぐに中退。

その後ネブラスカ大学に編入して卒業したり、ハーバード大学に入学しようとして断られたりと、色々なことがあった後、『賢明なる投資家』の著者ベンジャミン・グレアムがコロンビア大学で教鞭をとっていることを知り、コロンビア大学のビジネススクールに進学します。

バフェットとグレアム
グレアムとバフェット


ちなみに、グレアムは割安株投資で利益を上げた人物です。

「シケモク作戦」と呼ばれる、市場から過小評価された銘柄(Deep Value株)を拾い集めるのがグレアムの投資手法でした。


バフェットはグレアムから多くの事を学び、投資家として頭角を現していきます。

ちなみにグレアムの授業で、A+の成績を獲得したのはバフェットだけだったようです。


1951年に大学院で修士を取得したバフェットは金融の中心地、ウォール街で働くことを望み、グレアムの下でタダでもいいから働かせて欲しいと願いますが、グレアムの会社はユダヤ人を優先して雇っていたため拒否されます。

バフェットは仕方なく故郷オハマに戻り、父の証券会社で働き始めます。

その後バフェットは投資家として多くの活躍をし、バフェットはコカ・コーラやアメックスなどへの投資で凄まじい利益を上げ、億万長者となっていきました。

ウォーレン・バフェットの名言

リスクは自分が何をしているかわからないことから生まれる」

波が去った後にはじめて、裸で泳いでいたのは誰なのかが分かる

時代遅れになるような原則は、原則ではない。

株式投資の極意とは、いい銘柄を見つけて、いいタイミングで買い、いい会社である限りそれを持ち続けること。これに尽きます

最も重要なのは、自分の能力の輪をどれだけ大きくするかではなく、その輪の境界をどこまで厳密に決められるかです。

1ドルのものを40セントで買うことさ

ウォーレンバフェットの生き方や哲学についてもっと深く知りたい方はこの本がおすすめです。

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